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モノを作る

12.01.2020

この前尊敬する人と縁あってお会いする機会があって、

その時に「作曲家が曲を書けなくなる日」について、

なぜかそういうトピックが出て話し合ったのです。

 

たとえば、

私自身が青春時代にとても強く影響を受けて、

もう一時期は毎日毎日通学路とか、

何かの帰りとか、

その人の音楽しか聴かなかった音楽家の方がいました。

それで、

その人がつい以前引退会見をされてらっしゃって、

すごく大きな衝撃を受けたのです。

 

その衝撃の中に何があったかというと、

「才能ってなくなるものなのか」というのと、

「曲って書けなくなるのか」というものだったのです。

 

ここから先は専門家の人には怒られるかも知れないことを少し書きたいのですが、

たとえば「一時代を築いたミュージシャン」ならば、

ある程度「受ける」とか「売れる」コードの進行であったり、

そういうものを記号的な配列によって組み合わせて作ることって、

もしかしたら技術的には可能じゃないですか。

 

でも多分、

それってもう曲じゃないかも知れないのです。

 

「作り方を知ってしまった」

 

って、

その「作り方」って多くの人が目指して頑張っているのだけど、

「作り方を知ってしまう」ともう曲なり作品は描けなくなってしまう。

 

なぜか?

 

そこにもうドラマが入らなくなるからです。

 

売れるか受け入れられるかわからないけど、どうしてもこの12月に出す冬の歌には誰も来ない中ひとり震えながら東京駅であの人の帰りを待っていた少女の描写を入れたかった。

 

自分が体験したこと、

または人から聞いたこと、

もう本人すらも覚えていないかも知れないけど、

ひとりひとりの時間の中にあった大切な物語を、

そしてドラマを、

自分の作品の中に入れたい。

 

その想いこそが「どうしてもここで無理をしてでも手掛けなければいけなかった」という作品になっていく。

 

自分自身の人生を含めて、ドラマを作っていくって、

一番はじめは「は、何言ってるかわかんない」と全然誰とも共有できない「思い込み」という想いからしかスタートできないものだと思うし、

そして、

その思い込み=想いがその人に数々のドラマに出合わせていく。

 

しかし、

その想いから離れてしまう日はくるのだろうか。

 

技術があってドラマのない作品ってどうしても人の心には響かなくなってしまうし、

ドラマがあって技術がない作品というのも商品価値の世界の序列に載せることはできない。

 

そのふたつを合わせるために多くの人が「なんでこんな時間まで起きてやっているんだろう」と疑問に思う日々を過ごし、

そして「もし良かったら受け取ってください」という気持ちを込めて、

自分が携わってきた商品なりサービスを世の中に対して出していく。

 

個人的な意見なのですが、

ドラマを作るのに独創性ってもしかしたらあんまりいらないと思っています。

それよりも、

自分が関わるドラマに対しては、

自分なりの倫理観とルールが必要なんじゃないかとは考えています。

つまり、

自分に与えられたドラマに対しては「ズル」をしない。

 

今、上手くいっている人って、

人から見てわからないぐらいに「ドラマ」との付き合い方に対して慎重なルールを築いているんじゃないかと思いました。

 

 

 

以上。

 

 

神鷹のコラムでした。

 

 

 

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